管弦楽曲

«ニグレド -ロベルト・シューマン讃−»
(2009-10) for symphonic orchestra

Fl (picc), a-fl (picc), Bass fl (picc) . 3. 2. Bass cl. 2. Double Bsn / 4 (left backstage).3.3.1(left backstage). / 4 Perc. / Piano (right backstage) / Hp / 12.12.10.8.6

委嘱:新日本フィルハーモニー交響楽団
初演:2009年9月2日 サントリーホール
指揮:クリスティアン・アルミンク 新日本フィルハーモニー交響楽団
演奏時間: 18分
出版社: Breitkopf & Härtel


深層心理の分析で知られるカール・ユング(Carl G. Jung,1875~1961)は、魂の最大の絶望状態を、「ニグレド」(黒)と名付けました。その「黒」は、内的な死であると同時に、アルベド(白)と 呼ばれる次の段階に向かう再生/発達過程の始点でもあり、自身の内的体験や無意識を投影しながら、白に統合されるべく、常に変化している。そのような心の 変化を、ユングは、卑金属を分解して貴金属に作り替える錬金術になぞらえて考えたのです。

この委嘱のお話をいただいた時、音楽監督のクリス ティアン・アルミンク氏より、当初初演が予定されておりました2009年の新日本フィルハーモニー交響楽団の年間テーマは《秘密》、プログラムはクララ・ シューマンとブラームスと伺いました。私はすぐにクララの夫であり、若きブラームスを熱烈に支援したロベルト・シューマンを連想し、プログラムの中にはい ない彼を、私の作品の中でひそかに存在させたいと考えました。

ロベルト・シューマンが特に晩年、精神障害を病んでいたことはよく知られてい ます。彼は新しい芸術の創作に立ち向かう 「ダヴィッド同盟」という架空の団体を作り出し、そのメンバーとされる人物(フロレスタン、オイゼビウスなど)を、自作曲や音楽評論の中に登場させていま す。これらは、シューマンという一人の人物の中に潜む分身であり、「分解しながら発達過程を経て貴金属へと作り替えられる原石(ニグレド)」を彷彿させま す。

自らの精神や意識の構造は、分かっているようで一番本人が分からないものかもしれません。その意味で、深層心理というのは誰もが無意識のうちに抱えている《秘密》といえなくもないように思います。

昨 年の冬の2週間ほどを、私はスイスとオーストリアの山で過ごしました。アルプスは深く雪に覆われ、樹木の密生している山の中腹の地帯を除いては、その上も 下も、白一色に静まり返っています。しかし実際には、雪の下にいくつもの湖が点在し、厚く氷った湖水の下では、さまざまな生物がその生をひそやかに営んで いるのです。目に見えず、耳にも聞こえて来ない水面下の活発な活動は、自我の意識の下に潜み、眠っているようで実は想像以上に活発な無意識の存在を連想さ せました。

「どんなに白い白もほんとうの白であったためしはない。一点の翳もない白の中に、目に見えぬ微少な黒がかくれていて、それは常に 白の構造そのものである。白は黒を敵視せぬどころか、むしろ白は白ゆえに黒を生み、黒をはぐくむと理解される。存在のその瞬間から白はすでに黒へと生き始 めているのだ。(…)
どんなに黒い黒も、ほんとうの黒であったためしはない。一点の輝きもない黒の中に目に見えぬ微少な白は遺伝子のようにかくれていて、それは常に黒の構造そのものである。存在のその瞬間から黒はすでに白へと生き始めている…」(谷川俊太郎「灰についての私見」より)

曲は、微細な変化を内包しつつ原型に引き戻され、それを繰り返しながら発展してゆく、いくつかの層のコラージュによって成り立っています。

望月 京

ニグレド -ロベルト・シューマン讃−