映像を伴う作品

«瀧の白糸»
(2007) 溝口健二監督無声映画「瀧の白糸」(1933) のための音楽

尺八、20絃箏、三味線、打楽器、ヴァイオリン、ハープ、電子音響
 
委嘱:ルーヴル美術館
初演:2007年6月15日ルーヴル美術館オーディトリウム « Cinéma muet en concert »、フェスティバル・アゴラ
指揮:ユリエン・ヘンペル
ハリー・シュタレフェルト(尺八)、後藤真起子(箏)、辻英明(三味線)、アンサンブル・コントルシャン
クリストフ・マゼラ+IRCAM(電子音響)
演奏時間:102分
出版社: Breitkopf & Härtel


『瀧の白糸』日本初演にあたって

 「シネ・コンセール(ciné-concerts)」と呼ばれる、演奏会と上映会とが一体化した公演スタイルは、特に90年代以降、フランスでは極めてポピュラーな人気を獲得しています。Cine-concert.frというサイトのスケジュール案内によれば、今日では、ほとんど毎日のように、フランスのどこかで何かしらのシネ・コンセールが開催されています。多くのフランス人にとって、映画は常に、最も身近な「芸術」であることも反映されているのでしょう。実際、19年にわたるパリでの生活の中で、私自身もいくつものシネ・コンセールを鑑賞しましたが、そのどれもが盛況でした。450席のルーヴル美術館オーディトリウムで初演された『瀧の白糸』も、3日間の公演が毎日満席になるほど観客を集めることができたのです。

そうした数々の「シネ・コンセール」を見て、私がいつも思い及ぶのは、言葉や討論に重きを置く、古代ギリシャ以来のヨーロッパ文化の伝統とその影響力についてでした。

無声映画は、本来、言葉や音響がなくても表現が伝わるよう、映像自体が饒舌であることが多いものです。それに対抗するかのように、真っ向から休みなく作曲者の音楽語法をぶつけた「弁証法スタイル」の公演は(私が見たシネ・コンセールは例外なくこのスタイルでした)、「行間」や「空気」を読む国から来た者には、なんとも「過剰」で、疲弊感さえもたらすものに感じられました。

一般的には、映画に付けられた音楽と言えば、商業的にコード化された「映画音楽」を想像される方が多いかもしれません。クライマックスには最大限に盛り上がり、悲しいシーンには泣ける音楽。タイアップされた主題歌など。受け手の感覚を絶えず操作し、結果として受動的に鈍らせるような音楽語法もまた、この映画やプロジェクトには似つかわしくないものだと考えました。

発表時からほぼ80年、溝口の『瀧の白糸』には、時代を経ても変わることのない、人間のさまざまな感情が瑞々しく、あるいは生々しく息づいています。それを壊さずに立体感をもたせ、私たちの感覚をも研ぎ澄ますには、「言葉」ではなく「心」の動きに集中できるよう、余計な音響を極力省くことが肝要だと思いました。次ページの鼎談では、作曲から4年経った現在の時点で、やや分析的に語っていますが、実際の作曲時には、雄弁な溝口の映像に導かれるように、ほとんど自動的に音楽(や沈黙)が湧き出てきたことを印象深く覚えています。

鼎談の最後の部分で岡部真一郎氏も触れられていますが、この作品について、初演以来、国籍を問わず、多くのお客様から最も言及されたのは、「音楽の余白」についてでした。1時間半に及ぶ作曲した部分より、しなかった10分余について取りざたされるのは、作曲家としては喜ぶべきことなのかどうかわかりませんが、「弁証法」に匹敵する「沈黙」の有効性や普遍性を確認できたこと、そこに深い安堵にも似た喜びを感じた経験が、長いヨーロッパでの生活において、私自身に自らの日本人性を最も認識せしめたひとときだったかもしれません。

このたび、念願の日本初演にあたり、新しく演奏に加わってくださる奏者のみなさまを含め、多くの日本のお客様に、音楽を通して映画『瀧の白糸』を再発見していただけましたら、作曲者としてこれほど嬉しいことはありません。

望月 京
(2011年サントリー芸術財団サマーフェスティバル2011プログラムより)

瀧の白糸